昭和41年03月11日 夜の御理解
何の道でも、極めるということになれば、難しいことであろうけれども、信心の道ほど険しく、そして厳しいものはない。けれども、楽しい、けれども有難い、というのが信心の道だと思う。みやすいことではない、けれども、楽しゅうなり、有難うなっていけば、それは、みやすいことも同じことじゃ、と思う。だから、ここの所の発見が大事、信心も楽しい有難い、というものの分かる所までが辛抱である。
いうなら、お道の信心は、生神への道である。生神への目指しを一歩一歩近づかせて頂くのがお道の信心である。生身凡夫の私たちですから、そりゃやはり教祖の神様がおっしゃるように、凡夫の身から道を開いてゆくのであるから、難しい。それは低い所から高い所へ水を引くように難しいとも、仰っておられるようなものだと思う。けれども、そこに、楽しみと有難いというものを感じさせてもらい、おかげを頂いていく、という。ぎりぎり、自己の追求である。
信心辛抱というのは、抑制から抑制ということだと私は思うのですけれども、そこんところに追及して、初めて深さに触れることが出来信心辛抱しぬかせて頂いて、その後に頂く有難さというものを感じる。ただ今御祈念にかからせて頂く前に、吉井の杉さんが今朝方御夢を頂いたといって御取次ぎを願っておられる。ほんとにその通りだと私思うのですけれども、御夢の中にあちらのお座敷の離れのお座敷がございます。
そこで何かがあっているような所を頂く。そこに私が、行っておる。親先生がみえておるという。それで、親先生、足が汚れておられるから、足を洗ってさしあげようというので、洗面器にお湯をくんでタオルをそえてその待っておられる、そして、杉清子さんが私の足をこうして洗って下さっておる。ところがね、足の裏に毛がはえておると言われるのです。で、洗い終わってから、手も洗ってさしあげにゃいけなかった。
後先になったと言うて、また洗面器にくんで、手を洗ってもらわにゃんじゃったの、と言うて洗うて頂いておる、また洗うてさしあげておるような御夢でしたと、こう言う。私は、思うですねえ、ほんとにもう、もう思うこともなからなければ欲しいこともないというようなまあ大言、壮語ですたいね。言うならば。私はなーんもほんとにおかげを頂いて、なるほど、我情我欲を離れて、真の道を開き見らせて頂いておれば、わが身を神徳の中に生かされて頂いて、ひたらせて頂いて毎日が有難いと。
けれども、ここの所の私は、度合いというものは、もうそれこそピンから切りまであるんだと、生神への道にたつと、厳しさをここの所に感ずるです。私は足が汚れておるというのは、足元。言うなら私の心の中にある、それこそ毛が生えておると言うのは、もうそれこそ、獣のような心ということだと思う。私どもの心というものを本気で追求させて頂いたら、獣のような心があるということ。
手が汚れておるということは、もうなぁんも欲しいとは思わんと言いよるけれども、実際はお頂戴しておる姿が私の心の底にあるのだということ。おかげ欲しさという皆さんにも言うとるけれども、私の心の中にやっぱりあるんだと。追求してみると、あるのだということ。手が汚れておるということ。ですから、それは、なら人間だから、いいんだけれどです、汚れた手ではやれんじゃないか、親一つ、おやつひとつやるでもです。ああ、そげん手が汚れてはいけんじゃった、石鹸、というようにです。
改めて、自分自身の足元の汚さというか、いわゆる手元足元の、汚れというか、を私も痛感せぬわけにはまいりませんのですけれども、ここに例えば有難いということはです、私どもがこうやっておかげを頂かしてもらえる。例えば、ここに座らせて頂きます幾時間かというものがです、それは、やはり辛抱から辛抱であり、有難いことではあるけれどもです、言うなら、慎みに慎み、謙虚になれれる、出来るだけ謙虚にならせて頂いてのこの奉仕をしておる。
というこういうような時間が四六時中というようなことになってくれば、有難いことであろうとこう私は思う。皆さんたくさんの御信者さん方が、ほんとにあなたにはちった無理ですよと言うような願いをみんながなさる、願いをかけられる。今朝の御理解の中にございますように、様々な難儀な問題をここに持ち込まれる。神様どうぞ、おかげを頂かせて下さいと願うからにはです、もう、信者とは申しません、私が磨きますから、私があらたまりますから。
なら、どこをあらたまってよいか、どこを磨いたらよいか分からないでは、磨くこともあらたまることも出来ない。してみるとです、例えば、難儀な問題をたくさん持ってみえれる御信者さんは私の手を、私の足を洗っておって下さるようなものも同じということになるでしょ。もう、こげな難しい問題お願いでけんと思いよるけれども、願わらなければおられんのが皆さんなんです。これは、私だって同じこと。
願わらにゃおられんのです、私ども人間は。もうそげな私無理無理言うようなそげなお願いばあんたどんすんならと、例えば、いうような場合であってもです、そういう願いであるほどにです、私自身が私の手を足をきれいにさせて頂くことに私がつとめるというは、その人が私の手を、私の足を洗っておってくれるということになるのです。そこで、なら皆さんの立場に立ってみるときにです、様々な難儀な問題というような難儀な問題をひっさげておる時でなからなければです。
本気であらたまることも、または、磨くことも本気で信心精進するということも、信心の喜びも楽しみもです、その時でなからなければほんとの味合は分からないということ。この機会をこの際、頂いとかなければならん。どうでもこうでもおかげを受けなければならんとか、難儀な問題をひっさげておる時じゃなからなければ、人間のほんとのいわゆる自己追究とでも申しましょうか、自分という心を思い。
ほんとに表面にはないようであっても、心の奥をのぞいてみるとただ今申しますように、獣にも似たような心があるのだと。もう私には、我情も我欲もないごと言いよるけれども、我欲がお頂戴しとる証拠に、手がお頂戴をしとる、手が汚れておるではないかということになるんですねえ。信心の道、これはもう何の道でも同じでしょうけれども、とりわけ信心の道はそういう意味合いにおいて厳しいことである。いうならば難しいことであるけれども、自分のいわば見える範囲、視野が広うなってゆくという楽しみ。
だんだん視野が広うなってゆくという楽しみ、それは高い山に登ってゆくようなものである。だんだん高められるにしたがって、視野が広がってくる楽しみ。同時に必ずついてくるところのおかげの有難さ。これがあるから、信心が出来れる、これがあるから信心がみやすいものということになってくるのです。もし、視野が広うなってもゆかなければ、おかげもついてこないとするならばです。
おかげの世界も広うなってゆかないとするならばです、こんなに難しいそれこそ地獄のようなことであろう。十何年も前の私の御理解の中にございますように、私は、自分の、おー、追究していくことと。抑制してゆくということ。そこから、天地の親神様がいわば、天地が自由になるというほどのおかげを頂いておるといったような意味の御理解がございます。自分を抑制することを信心辛抱と。信心辛抱によって御徳を受けていく。自分の身をつつしんでいく。
自分を抑制していくという、そこから人格が得られる、人徳が得られる。その辛抱が神様の徳を受けていくことが出来る。雨が降るから、風が吹くから、えらい大儀と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行と。様々な問題、難儀なこれが雨であろうが風であろうかといったような問題もやっぱり雨に風に匹敵するといつも私は申しますが、今日の御理解はそうではない。
自分を、いわば、自分を出来るだけ謙虚な所において、自分の身をつつしむと。身をつつしめとおっしゃる、そういう辛抱。そういう辛抱が身に徳を受ける修行。生神への道というものは、私はもうそこの所にあると思う。信心の道を極めていくということはそこの所にある。そこで、例えばお互いが信心の時間というものが必要であるということが分かる。神様に自分が心を向けておる時は、その辛抱も出来やすい。
私どもがここに一日こうして奉仕させて頂いておる時にはです、例えば欲望が心に起こっても、それを抑える力が強い。神様に心を打ち向けておる。謙虚になれる、自分の心をギリギリ追求させて頂くことも出来る。しかも、有難くここでは辛抱ができる。その辛抱が身に徳を受ける修行とおっしゃる。身に徳を受けていく修行が有難いのであり、楽しいのである。信心の道は、確かに厳しいものである。
しかもそれは生神への道へだからである。厳しいけれども楽しいのである。けれども、有難いのである。その楽しい有難いというのが、段々自分の信心の視野が広うなって行く。広うなって行くに従っておかげもそれについてくる。その有難さと楽しみとが、なからなければ信心のを進めていくことは出来ん。 生神への道を辿らせていくことは、出来ん。だからこそ、信心はまたみやすいともいうわけになるのである。
どんなに厳しいことではあるけれども、楽しいものと有難いものがとものうてくるのであるから、みやすいことになってくる、楽しゅう出来るのであるから、みやすうなってくる、みやすうなる所までお互いの信心がです、追求されていかなけりゃいかん。信心の有難さ、楽しみというものがです、高められていけばいくほどになるほど厳しい。私が私を神様が指摘して、杉さんに教えておられるように。
「お前は我情もない我欲もない、本当に我身は神徳の中に生かされてある、喜びにをいつも味おうておるように言いよるけれども、お前も足元は、獣のごたるじゃないか。手はいつもお頂戴しておるじゃないか、しかも手が汚れておるじゃないか、そりゃやれんぞ」と、神様が厳しゅう杉さんを通して私に言うておられるように、だから、それを私がほんにそうだと分からせてもろうて、例えば、難儀な御取次ぎをさせてもらう時にです、私がそこの所に取り組んで修行させて頂くとするならば、その人は私の足を手を洗うて下さるということにもなる。
ですから、出来るだけ、みなさんのその例えば願いというものはです、勿論そのそれが夢のような願いではあっては、勿論およびませんでしょうけれども、人間として、切実にです、すがらなければおられん、願わなければおられないというのは、こんなこともお願いが出来んというのではなくて、願いをなさるということは、先生の信心を高めることにもなる。と同時にそれに神習わせて頂いて、お互いの信心もやはり生神への道を追求していくのであり、辿らせて頂くのであるという、いわば楽しさと有難さがとものうていくような信心になっていかなければならんと思うですね。
どうぞ